“『脱ダム』宣言”に基づく具体策の混迷が象徴する長野県政

田中康夫長野県政象徴の“『脱ダム』宣言”に基づく、最初の具体的事例である浅川・砥川の河川整備計画の見直しが、信じられないほど無責任な内容と基本方針の変更の連続で、混迷の度を深めている。この宣言が発せられたのは3年数カ月前で、その後従来計画の数値目標を堅持し、その80%を河川改修で、20%を流域対策で対応するという、両河川の代替案の枠組みが発表されてからでも、ほぼ2年が経過している。やっと昨年夏に具体案なるものが発表されたが、実質的な裏付けがなくて、国土交通省へ認可申請もできず、最近では、基本方針の大変更を余儀なくされているが、説明の整合性に欠ける無責任なものとなっている。何れにしても、ほぼ2年前に発表した代替案の枠組みは幻で、虚構であったことが明白になっている。代替案があるというから、長野県民は出直し選挙で田中知事を選んだのである。それがなければ話は違う。県民は幻の代替案に惑わされたのである。
このようになっている根本的な原因は、『脱ダム』宣言なるものが、科学的根拠に欠けた、単なる思い込みによるものだったところにある。先ずそのことを露呈させたのは、田中知事お気に入りの学者委員による、非科学的なご都合主義的な議論に基づく答申であった。すなわち、整備水準は当初計画通りとするものの、具体的な数値目標は科学的な根拠のない、単にダムを必要としないで済むように下げるというものであった。
流石に数値目標を下げる理由に説得力がなく、田中知事はそのままにせざるを得なかった。ただしダムなしにするために、二割分を森林整備、遊水地、貯水設備などの流域対策で補うとした。ところが昨年7月末に発表された流域対策では、複数の河道内・外遊水地というものが主体で、この他にため池と水田(後に撤回したが)を利用するというものであった。しかも今年の3月には、堤防の高さが30m前後にもなる河道内遊水地は、県の責任者でさえダムと認めざるを得ないような、中小ダム群建設という実態が明らかになった。そのためこれまで県の方針を支持してきた人たちからも不信を買う事態になっている。さらに当初森林整備を挙げていながら、数値的には入っていないし、また遊水地の設置やため池の利用は、安全性や管理に大きな問題があり、その実現性が極めて疑わしいものでもあった。最近では、浅川については、ダム建設を前提にした従来計画での河川改修を再開する方針に変更したが、これを補う流域対策なるものが数値的に足りないというずさんなものである。砥川では、取敢えず安全度を下げたもので河川改修し、将来安全度を上げるという案で国交省と打合せるとしているが、将来の計画と辻褄を合わす必要があり、その見通しはついていない状況にある。
前述したように流域対策なるものは主に河道内・河道外遊水地であるが、河道内遊水地はダムそのものによる河川改修であり、河道外遊水地も流域対策ではなく、機能上はダムと同じものである。流域から河川に流れ込む可能性のある水を対象にするのが流域対策である。河川に入ってしまった水を対象にするのは流域対策ではない。言葉の誤魔化しである。
長野県の言う代替案(浅川:河道内外遊水地3箇所とため池2〜3箇所、砥川:河道内外遊水地15箇所の、何れも中小ダム群)は、環境・安全・費用の面で、一点集中のダムとする従前の案に優るとは言えず、むしろ劣っている。
今の長野県政では常識ではとても考えられないことが平然と行われている。あるいは筆者の見方は偏っていると思われるかもしれない。それは世にある田中県政評価意見によっていると思う。このような意見の多くは、実態を正直に伝えた情報がほとんど得られない人たちによるもので、それに依存すると判断を誤る。中央紙の多くの記者が赴任して驚くのは、中央での田中知事の評価と現地の実態とのギャップである。本当のことを書いても、東京のデスクは中々採用してくれないと嘆いているのが実状である。最近では長野の地方紙や中央紙の長野版で、少しは田中批判記事が載るようになったが、依然として田中県政を手放しで評価しているものもある。それは知事から重要な情報がリークされるからで、ここにも「脱・記者クラブ宣言」の、田中知事の汚い本当の狙いの一部が現われている。
以上の指摘に疑問のある方は具体的に田中県政の実態を、自らの目、耳、足を使って、虚心になって確かめてほしい。そうしていただければ、幾らでも予想に反する事実が見付けられるはずである。
なお、詳しいことは、ホームページhttp://www.avis.ne.jp/~cho/や拙著「田中康夫長野県知事の虚像」に述べている。ご参照いただければ幸いである。
会員諸氏の活発なご意見開陳を望む。もちろん、根拠ある異論は遠慮なくお述べいただきたい。