土木のパンフレット」の文章表現、合ってますか?

森靖之です。
標記投稿が早くも意見受付拒否とのことで、やり直しますがよろしく。
このご意見に対して、コミュニケーション委員会からの分析は大変興味深く読ませていただきました。
私は40才以上ですが、この文章は、てっきり以下のようなこった表現なのだと思っていました。
「(わたしたちは、お店や、学校がなくては普通の暮らしが出来ないでしょう。
しかしさらに、)
ひょっとすると、わたしたちは、道や緑がなくても、水害が多くても、普通の暮らしが、出来なくなるかもしれません。」という具合に( )の部分が省略されていると思っていました。
したがって、委員会のおっしゃる「・・なくても」の新しい意味合いを全く理解できていなかったことにびっくりしました。
言葉が変化するのは当然ですが、「全然大丈夫」の表現では代替表現が不足しているようなので比較的使われるのに対して、「・・なかったら、」というしっかりした表現があるのに、あえて「・・なくても、」を使われるのは好ましいとは思えません。
従って訂正されるという委員会のご回答で、問題の所在と解決策がはっきりして、すっきりしました。
ジョグジャカルタ地震

またもインドネシアで地震災害。
家を失い、肉親を失って悲嘆にくれる人々の映像には心痛みます。
土木学会では調査団を出されるようですので、ぜひ力強い支えになれることを祈ります。
ところで、地名のことが気になりました。
新聞は各紙 ジョクジャカルタと書いています。
しかし、英文標記はYogjakartaで、そのまま読めばヨグジャカルタ、あるいはジョグジャカルタでしょう。
私の現地滞在経験では、ジョグジャカルタに聞こえましたが、あるいはヨグジャカルタだったかもしれません。我々は縮めてジョグジャといっていました。
いずれにしても、ジョクジャカルタというのはなかったように思いますが、どなたかご存知ですか?
森 靖之
「土木のパンフレット」の文章表現、合ってますか?

「土木のパンフレット」の5ページめ。『ひょっとすると、・・・・・・ 出来なくなるかもしれません。』と言う文章は、意味が通じていますか?
◆どこに送信して良いか不明でしたので、ここにしましたが、合ってますか?
地震で壊れなかった日本人による建物

森 靖之です。
新宿花園神社の宮司片山文彦氏の意見の引用ですが、昭和42年ウズベキスタン、タシュケントの大地震の際、建物の9割が崩壊したが、ソ連に抑留された日本人捕虜の手で昭和22年に完成した、ナボイ・オペラ劇場だけは無傷で残ったという。片山氏は、戦前の教育では、神様がいつでも見ているとの意識が子供の頃から植付けられていたのではないかといわれる。
抑留という身で、しかも異国地の劇場を手抜くことなく作り上げた技師の心意気に私は感じ入る。
また最近の姉歯事件で提起されたものは、単に個人の倫理問題ではなくシステム、仕組みの問題であろうが、そのような背景に、戦前の物作りにかける意気込みと近年の拝金主義的浮ついた風潮との違いを感じる。
専門家の倫理も結局このような人間としての倫理に戻るものではないだろうか。問題はこのような職人気質や物つくりの専門家の誠実さを、社会が評価できるかどうかである。マネーゲームとしかいえないような、相場や違法すれすれの操作による成金に若者があこがれる社会はどう見ても健全ではない。そのような社会で、専門家だけが倫理倫理と攻められてはしらけてしまう。
学校でも家庭でも、子供達に人として倫理教育をしっかりやって、社会の風潮をまっとうなものにし、健全な社会にしたいものである。そのとき初めて専門家の倫理教育も地に足がついたものになるだろう。
新年号特集「社会資本整備におけるコンプライアンスとは」は目から鱗と新たな課題

新年号「社会資本整備におけるコンプライアンスとは」(学習院大法学部教授櫻井敬子)を読んで
【談合はなぜ悪いのか】「関連する企業・事業者がそれぞれの技術力を持ち寄って協力し合い、事業を分担したうえで能力に応じて工事を受け持つことは、ごく自然な成り行きであり、合理的な対応ですらあって、特別非難を受けるような実質的違法性は存しないないようにもみえる。受注額についても、一定の利潤を確保するために「話し合い」が行われ、一定額を上乗せした額がセットされた場合、確かに上乗せ分は「ムダ」な支出であり、国民の血税は1円のムダも許されないはず・・・というのは少々形式論に傾いており、いまひとつ説得力がないように感じるのは、おそらく筆者だけでないであろう。」・・・・「価格の上乗せといっても、彼らなりの「常識」の範囲でなされるものであり、破格の上乗せがなされるような自体は通常生じない。」・・・・「談合は、伝統的な一種の利益再配分の形態ともいえるるから、実態に踏み込んで仔細に省察すればするほど、談合がなぜ悪いことなのか、かえって説明が困難になる。」
現代の社会では、企業であるからには、倫理に則った企業活動によって、適正な利潤を確保するのは当然である。ここで問題なのは「一定の利潤」「上乗せした額」「価格の上乗せ」(上乗せというのは材料費や下請け額に元請の業務に対する当然の対価をプラスするということ)が、納税者である国民、一般社会に合意できる常識の利潤の範囲か、通常の民間対民間、民間対個人の消費における契約のそれより不当に「破格の上乗せ」なのか、という問題である。前者であれば非難されることが全くない。後者であればコンプライアンス違反、非倫理となる。どっちなのかが社会一般に知らされないまま、分からないままにきたことが、談合は、
【ゲーム・ルールとしのコンプライアンス】「今や、およそまっとうな企業たらんとする者は、絶対やってはいけない「禁じ手」と心得るべき」
ものになってしまった。非倫理である後者のイメージが国民に植え付けられてしまった。通常の常識以上の上乗せがあったとして、その余り金がパーティ券購入という献金となり、政治屋がそれに群がる構造ができているのではないか、というものである。これは証拠があるわけではないので、分からないことであるが、国民にとってはさもあらんというアナロジーは捨てがたいのである。というわけで、
「談合は、公正な市場ルールを破る行為として、それをやったらゲームが成り立たないゆえに許されないのであり、ルール破りが追放処分を免れないのは理の当然である。」
我々は、そういうルールの時代になっているということを、理屈抜きに認めなければならないのである。そこでここまでは納得しよう。納得することが倫理でもある。
【NPM導入の意味合い】
しかし、ここで重要な課題が生じている。氏は字数の制限のためか、触れてはいないが、「血税は1円のムダも許されない」というかけ声で「安ければよい」では、国民の重要な財産としての社会資本の品質が保てなくなるという問題である。低価格入札、ひどいものは積算額(予定価格で通常の経済ベース)の30%で落札しているものもある。これではまともな仕事はできるはずがない。品質確保法が施行されたが、それでも「安ければよい」というのが横行している。社会資本は将来の世代の人々まで享受するものであり、このまま推移すれば、そういう国民大衆の安全が守られるのだろうか。公共投資ではないが、姉歯建築構造計算捏造事件が社会問題となっている。「安く、もっと安く」という圧力が、技術者術者倫理を反故にし犯罪を犯させてしまう今の時代風潮。NPMが導入され、競争は良いことだという新自由主義によって、姉歯事件のようなことが社会資本で生じないだろうか。建築も広い意味では社会資本ではある。最後の負担は国民がかぶることになる。適正な価格で事業を行い耐久性ある高品質の社会資本を将来の世代に残す責務が現代人にあるはずであるが、これでは、社会資本の整備と維持保全という誇りを持ち倫理に則った業務を行っている技術者はいったいどうすればよいのだろうか。建設産業の需要と供給のバランスが崩れているだけだと、経済学者は言うかも知れない。そのうちに技術力のない者が淘汰されて、価格も適正になると言うであろう。しかしその間に建設された社会資本の品質はどうなってもよいというのだろうか。
今回の建築士の問題は激しい競争が原因

今回の建築士の問題について、森靖之さんのコメントや御心配は誠に同感です。
一部のマスコミでも論評していますが、私は、この事件の背景には、やはり「業界」の中の激しい競争があるのではないかと思います。噂によれば、この業界では、激しい競争の結果、本来の価格の5割以下で「取る」というような事が行われているそうです。
そうなれば、結局、どこかにしわ寄せされることになり、建築士も、そのような圧力の中で、どの程度「筋を通せるか」は難しいところだと思います。
土木の世界でも、同様の事は起こりうる、いや、起こっているのかもしれません。その時、土木技術者として本当に間違いない対応ができるかどうか?如何でしょうか。
違反建築は設計施工一貫発注が原因か?

森靖之です。
今回の建築確認にかかる建築士の言動にはびっくりしたが、友人の建築家の意見によれば、
「今回のように販売に関わる開発業者は販売価格を抑えるために、建設費を
抑えるよう施工者に圧力をかける。→施工者は一般ユーザーから見えない部分や躯体構造をより安価にするためにあらゆる努力をする。設計施工だと、構造躯体の詳細情報はほとんど購入者に知らされないので、何が行われているか知る由も無い。
本来、設計図面通りの施工が正しくなされているかを、チェックするのが建築家の役割であり社会的責任なのに、いかに工事費の削減に協力する者を良しとする社会風潮があるのも事実。合理的経済設計は良しとしても、利害を異にする設計と施工は分離発注しないと設計者は追い詰められる。
欧米では設計施工分離が常識であるが、日本独自の設計と施工を一貫して行う総合請負方式が今回の事件の底辺にあるのかも知れない。今後の調査が解明することになろう。」とのこと。
土木にあっても、コスト第一主義の風潮や、設計施工一貫方式が安いという主張に疑問を投げかけるものであり、考えさせられる。
一級建築士の倫理観

森靖之です。
耐震設計偽造のニュースにはビックリした方が多いと思う。
産経新聞11月19日付けによれば、当該一級建築士は、「仕事をこなすのに頭がいっぱいで、悪いことをやっているとの認識はなく・・・」とのべ、また改ざんについて、「一番スピードを求めたら偽造になるんじゃないか」とまるで偽造は効率化の手段のような認識である。
万が一地震が来て倒壊したら多くの人命財産にかかる事項なのに丸でその認識がない。
もちろん、法令違反であるが、専門家としての倫理観の無さにはあきれるばかりである。
残念ながら、中にはこの程度の一級建築士もいる事を前提に、我々の自宅の建設を考える必要がということであろうか?
振り返って土木の専門家にあっても、他山の石として、自らの業務に関して倫理観の向上に努めて行くべきということかもしれない。