傍若無人のお便りで申し訳ありません。
小生、“鎌倉市坂ノ下埋立事業(昭和2年~18年)”について、鎌倉市図書館(近代史担当)のご協力により、各種史料等をまとめておりますが、その一環として2018年10月には、『幻のユーイービーチ(戸野琢磨設計図) 震災復興・坂ノ下埋立地の歴史』のタイトルのもと14日間に渡り、鎌倉市図書館内にて各種史料等の発表会(展覧会)を開催致しました。
現在は、神奈川県公文書館所蔵史料や鎌倉市図書館所蔵史料(小生寄贈)を参考に、当時の埋立工事、護岸工事、取付道路、埋立用土取所工事、事業見積書等について項目別に詳細にまとめております。これらの史料は、当時の埋立工法や技術を実証する上に重要な史料であると確信しております。
今回、お便りさせて頂きましたのは、埋立用“土取所工事”に関する史料を整理中、この工事が成されていなかつたら、材木座海岸からの富士山は、現在に至る迄ほとんど見えてなかった”のでは?と疑問が湧くと共に、現在、なぜ材木座海岸などからは、霊仙山の凹んだ先の富士山の眺望になってしまったのかの意義について、より多くの方々に知って頂きたいとの思いにかられ、当時の史料を元に凹地化した霊仙の標高を算出しジオラマを作製、形状等を確認してはいますが、小生、土木知識に乏しく難儀しています。
*同様に、この埋立事業がなければ稲村ケ崎の“切通し”は存在せず、国道134号線も現在のルートではあり得ませんでした。(切通し工事と付近の埋立は神奈川県により施工)
以上、取り留めのないお便りとなってしまいましたが、当時の詳細な埋立土木工事史料を始め、展覧会で利用した材木座海岸からの写真、合成写真(関東大震災直後、埋立工事前)等を持参し、やはり“富士山はほとんど見えなかった“の実証のためのお力添えを頂きたく、ここにお願いする次第です。