城下町鳥取外堀の評価

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城下町鳥取の水防システム、殊にスーパー堤防的な構造となっている外堀の土木的評価

城下町鳥取の基盤は、基本的には久松山の麓の沼地を埋め立てて1600年の関ヶ原の戦い以降、1632年頃までにつくられたものであるが、概略2段階のステップで造成された。
第1段階は、池田長吉・長幸親子の治世に6万石の城下町として造成された。第2段階は、1617年から池田光政の治世に32万5千石の城下町として大幅に拡張された。
池田光政の治世は、1632年に、従兄弟の池田光仲に継承されたが、土木的な基盤整備は、この頃までに概ね完了していたと考えられている。
今日では、第1段階の城下町と第2段階の城下町の境界は、第1段階の外堀ということになるが、第2段階の造成の際には第1段階で造成された部分を武家町とし、第1段階の外堀を城下町の中心的な排水路として薬研堀として整備し、その外に次第に深くなる沼地を埋め立てて町人町が造成された。
この城下町の外縁に外堀が築かれたが、これが薬研堀から水平距離約500mの幅を平均約1/200程度の低い勾配で盛土表面を造成し、外堀はこの盛土の頂上に深さ5m程度の川、袋川として整備されている。この川底はやや堅い地盤なので、最高盛土厚は5m強だが、薬研堀から外堀までは約2.5m高くなっている。この法面上の宅地は略水平とするので、約6段の水平面を造成し、各段の中央に埋立て圧密時に滲み出る悪水の排水溝を用意している。この堤防は、今日的な表現ではスーパー堤防ということになる。
川幅は30m強で、堤防高さを川の外側の堤防を城側の堤防高さより30cm程度低く造ってあり、従って、この川に掛けられている橋は、緩い反り橋であるが、全体として城内に向けて上り勾配となっており、この外堀の外側は、千代川のいわば河川敷ということになるが、例え千代川の水位が高くなってこの外側の堤防まで届いてもこの外堀を越えて城下町内に浸水する危険性が極めて低く、暴れ川であった千代川に対する水防としては完璧な水防システムとなっている。
1632年以前に造られた堤防で、コンクリートなどは使われていないが、極めて堅固な水防システムとなっていると共にこの堤防から城内を見ると町人町は城に向かって緩い勾配で下がっており、武家町は城に向かって上り勾配となっており、その向こうの久松山の斜面に城が築かれており、久松山は周囲に山が連山となっているので、それが屏風のようになっているので、極めて絵画的な城下町の情景となっているが、そのような景色を外堀の堤防上のどこからも眺めることが出来る。
極めて景観的に優れたこの外堀で護られた城下町であるが、江戸時代は、この堤防からの眺望の良さは防衛上の欠点と捉えられていたようで、堤防の頂上近傍は竹林として目隠しされていたという。この竹林は、これは明治以降伐採され、桜に植え替えられ散策路となっている。
いずれにせよこの外堀の水防システムは、土木遺産として推奨すべきものと思う