工事検査について
工事検査を実施する場合、業者が受検するのが本来の流れなのか?
現在、発注者の担当者が受検していますが、おかしいのでしょうか?
意見を頂きたい。
工事検査を実施する場合、業者が受検するのが本来の流れなのか?
現在、発注者の担当者が受検していますが、おかしいのでしょうか?
意見を頂きたい。
11月3日何気なく細木数子のバラエティー番組を見ていたら、突然土木の話題になりました。大手ジェネコンが1万年の寿命を持つコンクリートを開発したというニュースを取り上げていたのです。
細木女史いわく、「このような画期的な技術は大手ジェネコンでなければ開発できないのよ。
いま公共事業のことが話題になるけど、安ければいいというものではないの。
そうでしょ、安く取って無理に仕事を取るから手抜きをしなければならなくなるの。
しっかりした仕事をして、頂くものをいただけばいいのよ。そしてこの1万年寿命のコンクリートみたいに大切な研究をしてもらいたいのよ。」と。(言葉は正確には覚えてはいませんがこのような趣旨でした)
現在の低入札の抱える問題のひとつの本質をついていて、「安ければいいとは言えない」理由の説明としてはわかりやく第三者の発言としては結構でしょう。
ただし、土木技術者としては土木のシステム全体として、研究開発をどうするか本気の議論が必要だと思いました。
意見交換広場と質問広場の使い分けについての意見です。
意見交換広場は、「公共事業の今後とか」「自然環境と土木技術」といった抽象的な大きな話題についての意見交換として主に利用されていて、質問広場は実務者が、計画・設計・施工について細かいことを質問する場として利用されていると思います。
だだ、意見交換広場の方にも、質問広場の方に載せた方がよいような質問も見受けられます。事務局の方でコントロールは出来ないのでしょうか。
・一般市民ではなく、職業としてお金を貰っていてこのサイトに質問をしている方々が
多く見受けられます。
聞くことは良い事で質問に制限を求めることはありませんが、学生なら(学んでいる立場)しかたが無いが、社会人で対価を貰って商売をしている方々が、準公的なネット上で聞くべきでは無いことがらが多い。−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
技術屋さんはその専門分野以外の業務を受けないことが標準です
森靖之です。
標記投稿が早くも意見受付拒否とのことで、やり直しますがよろしく。
このご意見に対して、コミュニケーション委員会からの分析は大変興味深く読ませていただきました。
私は40才以上ですが、この文章は、てっきり以下のようなこった表現なのだと思っていました。
「(わたしたちは、お店や、学校がなくては普通の暮らしが出来ないでしょう。
しかしさらに、)
ひょっとすると、わたしたちは、道や緑がなくても、水害が多くても、普通の暮らしが、出来なくなるかもしれません。」という具合に( )の部分が省略されていると思っていました。
したがって、委員会のおっしゃる「・・なくても」の新しい意味合いを全く理解できていなかったことにびっくりしました。
言葉が変化するのは当然ですが、「全然大丈夫」の表現では代替表現が不足しているようなので比較的使われるのに対して、「・・なかったら、」というしっかりした表現があるのに、あえて「・・なくても、」を使われるのは好ましいとは思えません。
従って訂正されるという委員会のご回答で、問題の所在と解決策がはっきりして、すっきりしました。
またもインドネシアで地震災害。
家を失い、肉親を失って悲嘆にくれる人々の映像には心痛みます。
土木学会では調査団を出されるようですので、ぜひ力強い支えになれることを祈ります。
ところで、地名のことが気になりました。
新聞は各紙 ジョクジャカルタと書いています。
しかし、英文標記はYogjakartaで、そのまま読めばヨグジャカルタ、あるいはジョグジャカルタでしょう。
私の現地滞在経験では、ジョグジャカルタに聞こえましたが、あるいはヨグジャカルタだったかもしれません。我々は縮めてジョグジャといっていました。
いずれにしても、ジョクジャカルタというのはなかったように思いますが、どなたかご存知ですか?
森 靖之
「土木のパンフレット」の5ページめ。『ひょっとすると、・・・・・・ 出来なくなるかもしれません。』と言う文章は、意味が通じていますか?
◆どこに送信して良いか不明でしたので、ここにしましたが、合ってますか?
森 靖之です。
新宿花園神社の宮司片山文彦氏の意見の引用ですが、昭和42年ウズベキスタン、タシュケントの大地震の際、建物の9割が崩壊したが、ソ連に抑留された日本人捕虜の手で昭和22年に完成した、ナボイ・オペラ劇場だけは無傷で残ったという。片山氏は、戦前の教育では、神様がいつでも見ているとの意識が子供の頃から植付けられていたのではないかといわれる。
抑留という身で、しかも異国地の劇場を手抜くことなく作り上げた技師の心意気に私は感じ入る。
また最近の姉歯事件で提起されたものは、単に個人の倫理問題ではなくシステム、仕組みの問題であろうが、そのような背景に、戦前の物作りにかける意気込みと近年の拝金主義的浮ついた風潮との違いを感じる。
専門家の倫理も結局このような人間としての倫理に戻るものではないだろうか。問題はこのような職人気質や物つくりの専門家の誠実さを、社会が評価できるかどうかである。マネーゲームとしかいえないような、相場や違法すれすれの操作による成金に若者があこがれる社会はどう見ても健全ではない。そのような社会で、専門家だけが倫理倫理と攻められてはしらけてしまう。
学校でも家庭でも、子供達に人として倫理教育をしっかりやって、社会の風潮をまっとうなものにし、健全な社会にしたいものである。そのとき初めて専門家の倫理教育も地に足がついたものになるだろう。